昭和五十六年五月十三日 朝の御理解
御理解 理解の「理」についての御理解
いろいろな道理をもって教祖は天地の法則、又は心理といったような大変難しい事を私共でも分かるように容易ういろいろ説きあかしておられます。それを御理解と申しますわけね。その御理解の「理」という字は、王様の王を書いて里、さとという字が書いてあります。皆さんが合楽で信心を頂かれてから、結局合楽は心の故郷になる事でしょう。いっぺん参った事があるばってんというのとは違う。合楽でおかげを頂かれていよいよ心を育てて下さる云わば、合楽であるというお育てを頂いておるという事になると、確かに心は自分の心の故郷は合楽という事になりましょう。
また、王の里というのは云うならば、私の里というてもいいじゃないでしょうか。ここではまあ、私をまあ芯としてね。まあ王様という訳じゃないけれども、シンにしての合楽であります。そこに皆さんが心をお育てを頂く事の為にそれは、真に心の助かりが人間万事の上に人間の幸せの条件が足ろうてくる程しの、しかも一分一厘間違いなく頂けれる合楽という事にかかわりあいが出来てまいりましたら、もういよいよ合楽は皆さんの心の故郷だという事になります。
そこまでの信心を高めたい、進めたいと思います。合楽でただおかげを頂いたというだけではない。自分の心の故郷と言えれる所まで合楽との、云わば密接な関係をいよいよ作っていきたい。
昨日は福岡支部の御大祭がここの信徒会館で行われました。もう本当に始めから最後まで何というすっきりとした、きちっとしたそれこそ一分一厘間違いのない働きであろうかとも思わずにはおられない一日でした。
皆さんね、合楽では日々そうい毎日が繰り返されているんです。ですから合楽に参るとね、はあ神様の働きの間違いのない事。一分一厘間違いない事を見たり聞いたりしていくわけですね。間違いないなあというその心が強うなってくるその心で祈るのです日々。
おかげになるじゃろうか、ならんじゃろうか位な事で祈ったって大した事ないです。
信じて願う、信じて祈るという事なんです。合楽に来るとだから合楽のさまざまな行事の時にはいつでもやはり出て来てみるというちゃあなんですけれど、参拝のおかげを頂いて参加させてもらわなければいけないなあとね。もうお祭りもそれこそまあきちっとした事でぞざいましたし、後の御直会がここのお庭を使って何というですかね、模擬店が出来ました。寿司屋さんとか、うどん、そばとか、おでん屋さんとかいうふうにね。そして御直会は大きな料亭の板前をしておられます熱心にここに参って来ます、なんじゃったの西、なんじゃったかね。西原さん。西原さんが勝手の方のお料理で、もうそれこそ私どん手もつけませんでしたけども、見事なお料理が出来ておって、まあ夕食に頂いたような事でございました。もう兎に角そのお店を一遍どおり廻っただけで腹いっぱいになるわけですよね。どうでしょう昨日と一昨日が替わっておったら、いつもの事ながら恐れ入るなあと思うでしょう。皆さんが例えば、昨日のお祭りを拝んでおったらそうだと思うです。
そのいつもの事ながら恐れ入るなあというそお恐れ入った心で願うんです。しかもなら一分一厘間違いのない働きというね。昨日は文雄先生が皆さんお祈り添えを頂いとりましたのがおかげを頂いて昨日お礼に出て参りました。もう御直会も済んだ後で又、親子四人で私の部屋におれいに出てきまして話を聞いてから、又いよいよ驚くばっかりでした。
というのは、もう今度あの丁度十日前にもう大体間違いない癌という事だと、もうあの証があるわけですからね。それで結局もう一っぺん検査をしてからという事だったそうですけれども、御承知のようにあのうお休みがつづきましたたい。連休が。それやこれやで十日間余り延びた。その十日間延びとる間にそれが無くなっていた、だからお医者さんちゃ、確かにあったつじゃから、もうそれを捜し出さにゃ出来んち言うわけです。だからもう、あらゆる角度からもう死んだっちゃいかんちゅうごたるきつい検査を受けたそうです。
だからもうどういう角度から検査をしても、その無いというその所まで調べたからよけい安心ですわね。やっぱそうでしょうね。やっぱお医者さんはお医者さんとして確かにこうやってあったのが無くなってるもんですから、もうやっぱ先生方としてもその検査に特別意欲を燃やしなさった。そんな筈はない、そんな筈はないでその本気でそれを探そうとなさった訳です。ところが実際はそりゃ大変検査を受けるのがもう死ぬ程苦しかったそうですけれども、こりゃ沢山の人の祈りを受けておるそれに対してでもね、やっぱそれ位な修行はせにゃと言うて話した事ですけれどもね。まあおかげを頂いて丁度支部大祭の前日にそれが分かって大祭にはそれこそ有り難い有り難いで東京から息子が帰ってきとりましたから、一家中で御参拝が出来た。これは文男さん一家の事じゃないけれども、そのこりゃまあ文男さんの日頃の信心という事も言えますけれども、まあそういう例えばあらたかなというか不思議というかね。奇跡と言わずにはおれないような働きを目の当たりに見て聞く事が出来るのです合楽には。おれないような、来ると。
はあ間違いないなあ、これは日頃の信心が本気で本当な事を頂かねば駄目だなあといったような、例えば昨日今日から学院に入学する訳ですけれども、田原という修行生の先生、あの女の修行生が居ります。あちらへ参りますのに何かあの一言芯にするものを頂きたいと色紙を持って来た。それで私は色紙に平仮名で頂きましたから、平仮名ばっかりで頂く心がz「いただきますというこころ」と頂いた。
頂きますという心、それもみんな平仮名ばっかりでした。そこにまあ深い意味もあるようでございますけれども、あのう合楽の信心はねもう全てを頂きますという心であればね、もう障る事が無いと教祖がおっしゃるのだからね。あたる事もない。これは食べ物の事なんです。頂きますという心あらば障る事は無い。あたる事も無い。だからこれは食べ物の事だけじゃあ無い。合楽の成り行きを大切にするとか、尊ぶとか、黙って受けるといったような事もこうなんですね。頂きますという心なんです。ですから頂きますという心であのう頂くというてもです、こういう例えば痛い事であろうが、痒い事であろうが、降ろうが照ろうが頂きますという心で受けるところに、昨日の福岡支部の大祭に見るような、あらたかな働きとかおかげという事にもなってくる訳なんです。
そういう云うならば、私は皆さんに分かって頂きたいのはね、本当にそうい信心を本気でしなければいけない。でなかったらね合楽に来て「ほう」ちいうごたるおかげを見たり聞いただけじゃ駄目だと、ほんなこつじゃちいうごたる気が起きてくる。例えばここに確かに十日前にあった、その云うなら塊が十日後丁度連休が続いたおかげで十日間延びた時にゃすでに無かった。どんな角度から難しゅう検査をしてもそれがなかったとこう言う。人間ちゃですね本当にじゃなかろうかという時にはもう顔色から病人のような顔色になってしまいますけれど、昨日はもう肥えたごたる感じがする生き生きとした顔でお参りして来とりましたがね。もう家内子供達の喜びというものがですね、もうお父さんが今度の事で始めて本気で神様に向かえたという事なんです。そこから例えば昨日申しましたように私が今度の文男さんのあれには御神米を一体も下げませんでした。毎日ああしてご承知のように参って来ますけどもね、御神米というものを下げませんでした。御神米下げて御神米頂いとったら、はあ御神米が効いた位にしか思わんでしょう。問題は信心によるおかげなんですから、私は、でない方達には御神米を毎日沢山下げる方もあります。けども文男さんが場合にはこりゃ私も信じておるし文男先生も信じ、信じ信じられる仲に神様の働きがそこに現れない事がないと思いますから、御神米を下げませんでした。
そしてなら昨日本当に福岡の支部大祭に改まったお礼の言えれるおかげを蒙らせて頂いてです。それをなら目の当たりに見たり聞いたり昨日のお参りの方たちの場合一日を本当に、のうやこれが昨日なら、とても雨風でどんこんいかじゃったが神様の働きちゃのうと言うてその御直会を頂きながらねお話し合いが出来る。
そういう間違いのない働きを目の当たりに見たり聞いたりして自分の心が育てられていく所にです。又そういう間違いのないものを一つの手本とするか、下敷きにしてです信心の稽古をするんですから、おかげを受けられるという確信で祈る事が出来る、参る事が出来る。こげんして参りよるばってんおかげになるじゃろかという半信半疑のもんじゃない。為には今申しますように合楽でまあ言葉を新たに変えるとね、頂きますという心というものがお互いの日々の生活にはっきり出来てこなけりゃならないという事なんです。
そういう云うならば確信をもって祈っていく。そういう確信の持てれる心を育て頂いた合楽なんです。だから合楽は自分の心をお育て頂いた云うなら心の故郷だ、親先生の里だ、王の里だという事に理解の理の字を解明すると昨日今日の事をいうとそういう事になるでしょうがね。だから云うならば日々親の元に里に帰らせて頂いておる云うならば心、そういう心が心の中にはなからきゃいけん。
もう一日も二日も参らんとそれこそまあいうなら、憧念心、一日逢わねば千日のといったような心がおこってくる。そこから本当の合楽し合える世界というものはあるのですね。どうぞそうい意味で皆さんの合楽がみなさんの心の故郷としてのおかげを頂かせてもろうて、もう目の当たりに日々神様の或る場合には厳しい、或る場合には撫ぜて摩りされているかのような神様、子供をもって合点せよとおっしゃるでしょうが。今日はその事を見たり聞いたりして合点せよという事なんです。そこから親と子のかかわり合いちいうか交流も始まるようになって、いよいよ私は漠然として頂けるじゃろうか、頂けんじゃろうか位の事で、参いれれる参るのじゃなくて、合楽の場合はそういう確信、こちらが改まっていけば一心を出しさえすればこういうおかげも受けられるという所に合楽の値打ちがあるように思うんですけれどもね。 どうぞ。